昔、ドイツのとある町で聴いた「マタイ受難曲」。前半が終わると、前列の若い女性が拍手を始めました。えっ?一瞬、私は逡巡しました。この曲の宗教的な意味を考えていたからです。ですが、その拍手はあっという間に巨大なホールを包みこんでいました。すると、今度は私のひとつおいて隣にいた中年の女性が、拍手の発生源となった女性に「あなたはこの曲の意味がわかっていない」、「きょうのコンサートは台無しだ」などとまくし立てたのでした。目を真っ赤にした若い女性は、そのあと戻ることはありませんでした。
今もなお忘れることのできない事件です。どちらが正しのか、雰囲気を壊したのは誰かなど、軽々に判断することはできません。ですが、聴衆はそれぞれの期待を込めて、音楽の現場に立ち会うのです。
歌うことは聴衆の思いを聴くことなのかもしれません。美しいハーモニーは、他のパートに耳を傾けなければ生まれません。けれども、わがCCDのみなさんは聴衆とのハーモニーを目指してきました。他者を理解し、他者を愛する精神による演奏と言ってもいいでしょう。それは同志社建学の理念であるキリスト教の精神でもあります。長くそんな精神を大切にしてきたCCDで、あなたも同志社らしい学生生活を送ってみませんか。
同志社学生混声合唱団 顧問 中村信博
(同志社女子大学学芸学部教授)

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「歌はいつでも歌えるけれど、合唱は今しかできない」とは、もっともな言葉であると思います。自分の声ひとつあれば、私たちはいつでも、どこでも歌うことができます。好きなときに、好きなように。ですが、合唱はひとりではできません。皆が同じときに、同じ場所に集まって、初めて表現できる音楽なのです。それが「歌」と「合唱」の違いであり、魅力なのだと思います。私たちは、偶然同じ空間に集まり、共に歌う「仲間」となりました。何気ないことのようですが、それはきっと、何より大切なことです。性格も、考え方も、感じ方も、ここに集まったきっかけも本当に様々です。そんな色とりどりの「仲間」たちが、ひとつの同じ作品でつながること。それがとても嬉しくて、共に歌えることに感謝しながら、私たちC.C.D.は、今日も活動をしています。
私たちの主なレパートリーは、宗教曲です。これは、活動開始以来C.C.D.が大切にしてきたアイデンティティでもあり、古典から近現代まで、時代を問わず幅広く取り組んでいます。また日頃の練習では、客演指揮、ピアノ伴奏、ボイストレーニングにプロの先生方をお招きしています。先生方にご指導いただく中で、学生練習だけでは見つけられなかった学びに気づけるよう、団員一同積極的に取り組んでいます。演奏の場は、様々です。前期には関西六大学の合同演奏会、早稲田大学とのジョイントコンサートがあり、後期には一年間の集大成として独自の演奏会を開催するほか、教会や施設に伺い歌を届ける演奏旅行があります。そのどれもがそれぞれに歴史を持っており、歌い手と聴き手で音楽をつくる喜びは、回を重ねるごとに増していくように思われます。
「合唱」は、ひとりよがりではできません。常に「全体の中での自分の役割」を考える集中力が必要です。これは、決して容易なことではありません。しかし、2人3脚を思い浮かべてください。息を合わせよう、と相手を思いやったら、不思議と足が揃うように、「仲間」に思いをかけるとき、声は不思議なくらいに揃い、ゆたかな音楽になります。信じられないかもしれませんが、本当です。大切な「仲間」とともに「合唱」に打ち込めるのは、大学生である今だけです。みなさんも、わたしたちと一緒に歌いませんか?何だか良いかもしれない、と思った方は、ぜひ練習にお越しください。共に歌えることを、楽しみにしています。
同志社学生混声合唱団 第53代学生指揮者 荒木 希美